2010年1月5日火曜日

日本の底地・借地・貸家(001)

日本の底地・借地(底地・借地の歴史的考察)001

江戸(東京)に借地が多い←
 ①武家の拝領地が多く・・・親類への無償貸付以外には売却、質入、貸付が禁止されていた。1632年に  幕府が町人に賃貸する事を認めた。(許可)

 ②町年寄、御用達町人、医師  女官、絵師、坊主、能役者の拝領
  売却、質入は禁止されていたが貸付については認められていた         
            
 ③寺社、地主 ・・・売却は禁止

 明治期の借地の消滅(1872年には「壬申地券」の発行
 ・武家拝領地、町人拝領地の収用→底価売却

大阪(大坂)の借地←家持地主の増加
 ①土地所有の尊重の意識が薄く
 ②坪領地主が存在しなかった
 ③寺社が少なかった
 ④空き地が没収されたため貸家が増加
 ⑤公役町役を避けるために借家人が増加

権利金の発生
 地価と地代額が上昇し、地代利回りが低下する中で、(明治30年頃、千代田区の借地で地代の5年分程度 を権利金として授受した契約書が存在する)権利金の授受が始められ、借地権取引と借地権価格が成され  た。
 ☆地代利回りを2%とすると、地価の10%程度になる
 権利金が授受された理由として、地価上昇の中で
  ①将来の地代値上分
  ②新旧借地人の地代調整のため
 特に②の要素によるものと考えられる。
 
 大阪においてはこの時期に権利金の例がないのは、市街化地に借地が少なかったからである。
 借地権売買は、地価の上昇と地代のアンバランスにより貸しているより売却した方が有利であるとの考えに よるものである。

権利金の慣行化
 借地法制定後に東京で授受例が増加したが、1930年には地価が停滞し地代利回りが回復すると権利金の授受は少なくなった。
 権利金は前述の将来の地代値上げ分については、特に有効なものとなった。それは、最低借地期間の法定により必要と考えられたのである。ここで押えておくべきことは、大土地所有の上に多数の借賃がいたからであり、地代上昇傾向が存在したからである。


1920~26年の大土地所有の減少
 産業投資を志向する土地所有者において、貸地経営からの撤退が顕著になった。(三菱等の財閥である)

第2次地代家賃統制例 1938年8月4日~1946年9月30日効力を失う。

第3次地代家賃統制例 1946年10月1日~
 地代家賃を1946年9月30日時点で凍結「停止統制額」その後の地代家賃については物価庁長官の許可となる「許可統制額」この基準は、「付近類似の借地の地代額」「旧地代家賃統制令による適正標準」 1948年10月地租課税率の引き上げ地代家賃統制令は、権利金は地代の前払いとして考えていた。敷金については規制がなかった。
 この時期に借地権の割合が一挙に上げられる事となる。土地区画整理事業や課税において顕著となる。
1946年3月の財産税課税では52%(東京都区内・横浜市)
1950年12月~1953年の富裕税課税では90%になった(全国に及ぶ)

   地方税法の改正、地租標準課税率
   土地の賃貸価格の28.8%~ 24.0%に引上げる。
   これにより、借地率は低下し、借地が消滅する。しかし、借地数は増加している。

地主が借地人、借家人に土地を売却していく。その一方で新規借地供給が増加したことによる。

1960年より、東京・大阪等の大都市を中心に、「敷金、保証金」の支払いが顕著に増加しているし、権利金の授受については1950年に統制令が解除されると増加した。
 東京は更地価格の40~60%
 大阪は更地価格の20~50%
更新料は1960年頃より東京周辺で授受され始めた。
 住宅地で更地価格の8~12%
 商店地で更地価格の12%
 堅固な建物で更地価格の15~20%
更新料は1962年頃から一部慣行といして生まれてきたといえる。

最後に、東京都大阪の借地の違い
 東京
 借地が多く、借地権取引権利金の授受の慣行が存在、借地権価格が確立
 大阪
 借地が少なく、借地権取引権利金授受の慣行が存在しない。借地権価格の意識が弱い。
 大阪で借地権価格の観念が生まれるのは立退料の慣行化と高額化による。

借家率 
 東京では1873年に低下する、窮民の下総原野への追攻によるか、その比率は高いものであった。1941年は70%の水準である。
 大阪では1925年には借家率が90%と非常に高い。大阪・東京は江戸期より借家率は高く、明治大正期においてもその水準に変化がなかった。その後、1941年借家法改正等により、1950年代末まで低下する。そして1956年の新築建物に「地代家賃統制令」が適用されなくなり上昇する。1960年代以後は40%~60%と横はい傾向となっている。