地価と地代額が上昇し、地代利回りが低下する中で、(明治30年頃、千代田区の借地で地代の5年分程度を権利金として授受した契約書が存在する)権利金の授受が始められ、借地権取引と借地権価格が成された。
☆地代利回りを2%とすると、地価の10%程度になる
権利金が授受された理由として、地価上昇の中で
①将来の地代値上分
②新旧借地人の地代調整のため
特に②の要素によるものと考えられる。
大阪においてはこの時期に権利金の例がないのは、市街化地に借地が少なかったからである。
借地権売買は、地価の上昇と地代のアンバランスにより貸しているより売却した方が有利であるとの考えによるものである。
権利金の慣行化
借地法制定後に東京で授受例が増加したが、1930年には地価が停滞し地代利回りが回復すると権利金の授受は少なくなった。
権利金は前述の将来の地代値上げ分については、特に有効なものとなった。それは、最低借地期間の法定により必要と考えられたのである。ここで押えておくべきことは、大土地所有の上に多数の借賃がいたからであり、地代上昇傾向が存在したからである。
1920~26年の大土地所有の減少
産業投資を志向する土地所有者において、貸地経営からの撤退が顕著になった。(三菱等の財閥である)
1921年借地法の制定←5大都市のみ
法定最低期間、法定更新、契約終了時・借地権譲渡・転貸の場合の建物買取請求←建物価格
1941年「正当事由」
第1次地代家賃統制例 1939年
第2次地代家賃統制例 1940年
第3次地代家賃統制例 1946年10月1日~
地代家賃を1946年9月30日時点で凍結「停止統制額」その後の地代家賃については物価庁長官の許可となる「許可統制額」この基準は、「付近類似の借地の地代額」「旧地代家賃統制令による適正標準」 1948年10月地租課税率の引き上げ地代家賃統制令は、権利金は地代の前払いとして考えていた。敷金については規制がなかった。
この時期に借地権の割合が一挙に上げられる事となる。土地区画整理事業や課税において顕著となる。
1946年3月の財産税課税では52%(東京都区内・横浜市)
1950年12月~1953年の富裕税課税では90%になった(全国に及ぶ)
地方税法の改正、地租標準課税率
土地の賃貸価格の28.8%~ 24.0%に引上げる。
これにより、借地率は低下し、借地が消滅する。しかし、借地数は増加している。地主が借地人、借家人に土地を売却していく。その一方で新規借地供給が増加したことによる。
1960年より、東京・大阪等の大都市を中心に、「敷金、保証金」の支払いが顕著に増加しているし、権利金の授受については1950年に統制令が解除されると増加した。
東京は更地価格の40~60%
大阪は更地価格の20~50%
更新料は1960年頃より東京周辺で授受され始めた。
住宅地で更地価格の8~12%
商店地で更地価格の12%
堅固な建物で更地価格の15~20%
更新料は1962年頃から一部慣行として生まれてきたといえる。
東京と大阪の借地権の観念の違い
東京
借地が多く、借地権取引・権利金の授受の慣行が存在、借地権価格が確立
大阪
借地が少なく、借地権取引・権利金授受の慣行が存在しない。借地権価格の意識が弱い。
大阪で借地権価格の観念が生まれるのは立退料の慣行化と高額化による。
借地権の成立
①借地人の「借り得」の存在
②東京・横浜での借地権売買の慣行←1923年の関東大震災の後に一般化。
③大阪では、戦後の立退料の高額化を契機とする。
④権利金の授受土地収用・土地区画整理事業での「相当の補償」で借地権の補償。←住宅地20~25%、商業地50%・・・画一的な基準の必要性。
など、借地権・権利金は歴史的な経緯により認識され、確率されてきたものである。この意味では地域性があるともいえる。